2012年03月12日

震災から1年

昨日で震災から1年。テレビでも震災特集が多くやられていましたね。
震災から日が経つにつれて、被災地のことはだんだんと考えなくなってきており、最近はほぼゼロと言ってもいいでしょう。でもこういう特集を見ると、やっぱり忘れてはいけない、って思います。でもまた日常に戻ってしまうと、自分の生活のことでいっぱいいっぱいになり、きっと忘れてしまうでしょう。

どうすればいいのかなと考えていたのですが、生かしてもらっていることに感謝して、日々の日常を精一杯生きる、これしかないのかなと思いました。被災地のためにはたまに募金するくらいしかできません。でも日々の自分の生活をがんばることなら毎日できます。自分の手の届く範囲で、自分の周りの人や仕事で関わっている人たちのために一生懸命がんばることによって、自分の周りの人を幸せに…って言ったらちょっと大げさですが、一緒に何かやって楽しんだりとか、仕事で成功して一緒に喜んだりとか、自分のできることは小さなことだけど、そういう小さなことのために一生懸命やっていこうと思います。そして、それが巡り巡れば、間接的に被災地のため、日本のため、そしてより良い世界のためにとつながっていく気がします。

Think globally, Act locally. という言葉が好きなのですが、世界のより良い姿を思い浮かべながら、自分の日々できることをコツコツとやっていこうと思います。
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2012年02月12日

「つながらない生活」「ネット安息日」

今日、本屋に行くと「つながらない生活」という名前の本が目に飛び込んできました。ちょっと手にとって読んでみたけど、入口近くで寒かったので買わずに帰ってきました(笑)。

でも気になったので家に帰ってからネットで検索してみました。自分の予想通りの本のようです。以下、アマゾンの【本書の概要】から抜粋です。

「メールやブログにくわえ、ツイッターやSNSなど、わたしたちのネット空間での「つながった」生活はどんどん忙しくなるばかり。
スマホは手放せないし、タブレットは便利だけれど、果たして私たちの生活はこうしてつながり続けることで豊かになっているのか?
誰もが感じている「常時接続社会」の矛盾。じつはギリシャ時代にも同じような悩みがあった。
21世紀の「つながりすぎ」の悩みに、古今の賢人の知恵でこたえる、ユーモアにあふれた実践的テクノロジー論。」


そしてさらに調べていると「ネット安息日」という言葉も出てきました。

これは日本経済新聞の2月7日の春秋に出ていた言葉で、興味深かったのでこれも下に抜粋してみます。
http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE1EAE4E3E5E7E2E2E2E5E2E0E0E2E3E09F9FEAE2E2E3?n_cid=DSANY001

「金曜夜の就寝時から月曜朝まで、自宅のパソコンをネット接続から切り離したらどうなるだろう。米国の元新聞記者が、家族とともにそんな実験に挑んだ。電話での会話や執筆、テレビ視聴は可能だが、ネット検索やメールは使わない。

▼実験初日。ネット経由の映像や音楽などを欠いた我が家は、他人の家のようによそよそしかったと体験記「つながらない生活」に書く。見慣れた風景のはずなのに現実感は乏しく、部屋は静まりかえって感じられ、見るものには生気がない。思いついた疑問も天気予報もすぐには検索できず、ただ不自由を嘆いた。

▼数週間後、変化が訪れる。パソコンに「へばりついていた心」が引きはがされ、家族水入らずの時間がよみがえる。本に向かいじっくり物事を考える習慣が戻る。ネット不在の週末が楽しみになると同時にデジタル機器の有益さも改めて理解。ネットとは自分で適切な距離を取らなくてはいけないとの結論に至る。

▼交流サイト大手の上場計画が話題を集め、高機能携帯電話の使い過ぎで通信網がパンクする。ネット環境はもはや生活や仕事に不可欠だが、すべて便利過ぎるものには注意が要る。米国では右のような「ネット安息日」を設ける人が増えたと先月の本紙記事にある。これもネット先進国ならではの知恵か。」



うん、確かに最近の僕は毎日必ずネットに接続している気がします。流行りのスマホはまだ持っていないので専ら家のパソコンからですが、仕事から家に帰ったら電源をポチ、休みの日は起きたら電源をポチっとやっています。

で、何をしているのかというと、メールをチェックして(と言っても、ほとんどがくだらない広告メールなのでそれを削除して)、Yahooニュースで阪神タイガースの記事をチェックして、Facebookをチェックして、ミクシィをチェックして、気になることを検索して、とそんな感じ。

でもこの「つながらない生活」「ネット安息日」、すごく気になります。
思えばカメルーンでは、最初の半年くらいはネットはおろか電気すらもない生活でした。電気がないのは正直不便で、ランプやろうそくでは本を読んだりも難しく、夜の7時以降は何もすることがない生活でした。
では何をしていたかというと、よく色々と考えていました。暗がりの中、考えをノートにまとめたりしていました。

続いて、ネットはないけど電気はあるところに引越しました。すると、パソコンが使えるようになるのです。そこで何をしだしたかというと、隊員間で貸し借りしていたDVDを見るようになりました。時間を無駄に使うようになって、正直、考える時間は減りました。

そして今、電気もネットも何でもある日本で生活していて、特に何をすることもなく、ついついネットに接続している自分がいます。

毎日ネットに接続していて、いいこともあります。Facebookなどでは普段会えない友達とつながりが持てたりして、みんなの投稿を見るのも楽しいし、昨日は誕生日だったので、多くの人から「おめでとう」と書き込みをもらいました。これも毎日接続しているからチェックできたのです。

でも、ネット安息日を設けてみるのも面白いかもしれません。僕の場合、パソコンでネットをしているので「パソコン休息日」となるのかもしれませんが。幸い、土日に家で仕事をすることもほとんどないので、パソコンを起動しなくても特に困りません。

カメルーン時代の、ネットも電気もない生活に戻る必要はないと思います。でも常時接続もどうかと思います。便利なツールなのだから利用すればいいのだけど、距離を保つのも大切かもしれませんね。

幸いにして、まだスマホを持っていないので、週末にネットに接続しない生活は簡単にできそうです。来週からやってみようかな。



さて、このブログも思えば今年初投稿。
だんだんと更新頻度が減ってきています。理由は、上に書いたように考える時間が減ってきていることも1つでしょう。何することもなく、日々があっという間に過ぎていきます。また、ツイッターで簡単にその日のことをつぶやくので、あとでまとめてブログに書くこともしなくなったことも1つ。そして、「協力隊後」というテーマでやってきたけれども、いつまでも「協力隊後」ではないし、今は新たなステージで新たな目標に向かっているので、このブログに合うテーマの出来事が日々の中であまりない、ということもあります。
なので協力隊のことは一旦この辺りで一区切りを付けて、もっと幅広いテーマのことを書くブログを新しく始めようか、などと考えています。まあ、もうちょっと考えてみます。
posted by まっつん at 22:43| Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月04日

大阪人は本当にせっかち?

以前、7月10日の記事「大阪で感じた色々なこと」で、「みんな信号無視をしまくって、せかせかしている」と書きました。

でもその後、「本当にみんな急いでいるのだろうか? 本当にみんなせっかちなのだろうか? 本当にただそれだけの理由で信号無視をするのだろうか?」と考えていました。

仮説1
急いでいる人というのは、約束などの時間に間に合いそうにない人なわけで、そういう人は家でぐうたらしているからギリギリになってしまって、急いでいるわけです。ということは、「急いでいる人=せっかちな人」ではなく、「急いでいる人=ぐうたらな人」の方が正しいかもしれません。

仮説2
大阪というのは元来商売人の町です。商売人というのは、やっぱり稼ぐ人です。稼ぐためには、カメルーンのようにのんびりと非効率的にやっていては稼げません。お金だけでなく、時間も稼いで効率よくしないと。ということで、そういう商売人気質が伝統的に大阪の文化として大阪人にしみついており、少しでも時間を稼ぐためにみんな信号無視をしているのかもしれません。

仮説3
これも仮説2に似ています。これは父が言っていたのですが、元来商売人気質の大阪人は「損得勘定」で物事を考えます。
例えば信号が赤なので歩行者の自分は止まっています。でも車が来る気配はありません。この時、「渡らな損」という考えが頭に浮かんで、「信号を無視して渡る」という行動に結びつくというのです。なるほど、これもあり得ますね。

ということで、どれが正しいかは分かりませんが、ただ単純に「大阪人はせっかちだ」というだけで信号を無視したり、せかせかして急いだりしているのではないような気がします。何気ない信号無視という行動も、深く考えるとそれは大阪の伝統文化も絡んだ面白い現象だと言うことができるでしょう。
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2010年05月22日

「J’adore les bananes」の由来(Pourquoi le nom de blog est 'J'adore les bananes'?)

帰国までちょうど1ヵ月となりました。来月の今日はカメルーンを飛び立つ日です。

さて、今さらですがそういえば書いてなかったと思うので、ブログのタイトルの由来です。

「J’adore les bananes」、意味は「僕はバナナにゾッコン、愛している、大大大好きだ〜!」ということです。なぜこんなタイトルなのか? まあバナナは好きだけど、そこまで大好きというほどでもありません。

ことはちょうど2年前。派遣前訓練の駒ヶ根訓練所でのフランス語の授業でした。ちょうどその日は「J’adore〜、J’aime〜(〜を愛している、〜が好き)」などの表現を学んでいました。そして先生が「好きなものを4つ書いてください」と言ったのですが、僕はよく聞き取れず、とりあえず適当に4つのものを書きました。

すると先生が「『好き』にも色んな度合、表現があるから、『Je m’intéresse〜、〜に興味がある』『J’aime bien〜、〜が好き』『J’aime beaucoup〜、〜がとても好き』『J’adore〜、〜が大大大好き』の4つを使って練習しましょう。じゃああまり好きでないものから選んで言っていきましょう」と言いました。

僕は「しまった! 4つの好きなものだったのか!」とこの時気付きましたが、もうすでに遅し。当時の僕はボキャブラリーも少なくて書き直すこともできず、僕の順番が回ってきて、とりあえず消去法で嫌いなものから選んでいき、確か最後にサッカーとバナナが残り、どちらかというとバナナの方が好きなのでサッカーを先に言い、そして最後に「J'adore les bananes」と言いました。

するとクラス中大爆笑。だって、バナナにゾッコンで愛してるやつなんてそういませんからね。どんだけバナナが好きなのでしょうかね。それからと言うもの、先生には本当に「Takeshi adore les bananes」だと思われ、「バナナだよ」とバナナを買ってきてくれることもしばしば。僕はクラスですっかりバナナキャラになってしまいました。

ということで、駒ヶ根の良き思い出ということでタイトルを「J'adore les bananes」にしています。以上、タイトルの由来でした。
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2010年02月02日

ブログの投稿数に見る心のバイオリズム(Biorythme de la passion de cœur d'après nombre d'article)

このブログには月別の投稿数を表示している欄があります。見てみると、毎月の記事の投稿数には相当なバラつきがあり、多い月で26投稿、少ない月ではたったの2投稿です。これは何なのかと考えると、1つのことに気付きました。自分の気持ちに見事に比例しているのです。

文章を考えて書くというのは結構時間がかかります。しかもJICAに強制されているわけではなく、自発的にやっているもの。書いたところで誰も褒めないし、書かなくても誰にも怒られない。自分が書くか書かないか、それだけなのです。

僕の場合は、毎日のことを日記のように書こうとは思っていません。何か伝えたいものがある時だけ書いています。そしてこの「伝えたいもの」とは自分の気持ちによって意外に左右されてきます。気持ちが乗っている時というのは、普段の生活でも発見が多いし、「これも書きたい」「あれも伝えたい」と記事のネタがいっぱい頭に浮かびます。逆に気持ちが落ちている時というのは、書く記事が頭に浮かんでこないし、面倒くさいので何も書く気にもなりません。

こう考えて記事の投稿数を見てみると、自分の気持ちの波、心のバイオリズムがよく分かります。記事の投稿数をグラフにしてみたので少し説明してみましょう。


無題.JPG


下の数字は左から2008年7月、8月、9月と進み、2009年に入り、2010年1月までの各月を表しています。そして横の数字が記事の投稿数です。グラフの見方として、記事数が21以上の時は好調、11〜20の時は普通、10以下になると不調、という風に見てください。

まず2008年の7月は首都ヤウンデでの現地訓練中で調子は普通。8月は任地に赴任ということで気持ちが盛り上がっていますね。しかしそのあとは普通の調子が続き、12月は記事投稿数10で初の不調です。前配属先と大っぴらに意見衝突したのがこの月です。実際この頃を思い返すと、やる気はまだまだ失っていないものの、かなりのショックを受けていました。

2009年に入り、でも何とかこの配属先とうまくやっていこうと思い、活路を見い出そうと努力して、4月には調子を取り戻しています。この月は引越もあったので、新たな気持ちになれたこともあるかもしれません。しかし6月、7月、8月と超どん底期を迎えます。6月のマラリアから始まり、前配属先と色んな部分で衝突し、やる気をかなり失って、もうかなりどうでもいいと思っていました。まさしくどん底ですね。

しかし9月からは任地変更へ向けて再び前向きに動き出し、任地変更しました。そして10月のセネガル任国外旅行を経て、11月と12月は絶好調だったことがうかがえます。実際、この2ヶ月間はやっと隊員として活動しているという満足感でいっぱいでした。

そして1月で少し失速。11月と12月で飛ばしすぎたのか。実際、1月は村の嫌な部分が見えたりしてストレスもたまった月でした。ちょっと疲れがきたのかもしれませんね。


こんな感じで、かなり見事に僕のバイオリズムが記事の投稿数に表れていました。自分で分析してみて、その時の自分の気持ちと当たっていて、かなり面白かったです。

さて、残り活動期間は4ヶ月と少し。毎月絶好調というのは難しいものの、じょじょに上げていって、最後はラストスパートということで好調期間を長く持続できるようにがんばりたいです。
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2009年11月30日

なぜ走る?(Pourquoi je cours?)

今朝、走りに出ました。そして走っている途中にふと思いました。
なんで僕は走っているのだろう?

カメルーン山マラソンが来年2月に開催されます。一応、来年も出るつもりです。でも、もうすでに完走するという目標を果たしたし、はっきり言って出る目的がありません。どうがんばっても上位には食い込めないし、今年よりも1秒でも早く走りたいとも思いません。普通のマラソンならまだしも、あんなきつい大会はもうコリゴリというのが本音。

じゃあなんで僕は走っているのか? 応援に来てくれる人たちに完走する姿を見せるため? かっこつけるため? 僕はそんなにかっこつけなのだろうか。
自分のため? 自分の可能性を試すため? でも、もう試して、完走できた。

結局、今まで僕はなんで走ってきたのだろう? 痩せるため? いや、僕はもともと痩せている。体力を維持するため? 体力を維持して、何をするのだろう? 分からない。

なんで僕は走っているのか? 答えは風の中、ですかね。
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2009年03月22日

大阪の地域情報誌(Article pour JICA Osaka)

先月の話。JICA大阪より、地域の情報誌「シティライフ」への原稿を依頼されたので書きました。ただ、大阪出身の隊員の数も多いし、僕の記事が載る確率は低いだろうなぁと思っています。でもせっかく書いたし、そのままボツも残念なのでここで紹介してしまいます。

テーマ「海の向こうの素敵な人たち」

幹線道路から分かれて土の道を2時間ほど進むとあるニヤディンギ村。電気も水道もなく、料理は薪、トイレは藪の中、家は土壁。生活環境は厳しいけれど、家畜のヤギや豚が自然に放牧されていて、近くの山もきれいに映えるとてものどかな村。そして人々ものどかで、僕が訪れるといつも笑顔で暖かく迎えてくれる、そんな村。
村の人たちはほとんどが農業に従事している。キャッサバやトウモロコシ、カカオが主な栽培品目。早朝から夕方まで、みんな一生懸命働いている。
村には女性グループが1つある。17人の主婦が集まって共同でキャッサバを栽培している。月曜日にみんなで農作業をして、日曜日はみんなでダンス! 真面目で陽気な彼女たちは、決して楽ではない日々の生活にも弱音を吐かず、前向きに向かい合っている。そして村の発展を目指して地道にコツコツと活動している。
貧困問題解決のために日本からも多くの国際協力が行われているが、なかなか一朝一夕に進まない現状もある。そんな中、彼女たちのように日々たゆまぬ努力を続けている人たちもいる。このような小さな活動が積み重なっていくことが、貧困問題の解決にとって大切なのではないだろうか。

写真1 村の女性グループ。共同の畑にて。
jicaosaka1.JPG

写真2 収穫したカカオを乾かしているところ。
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写真3 日曜日のダンスは余暇の少ない村の楽しみの1つでもある。
jicaosaka3.JPG
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2009年02月03日

食器で味が変わる?(Le goût est changé à cause des assiettes ?)

この前、食器を1枚割ってしまいました。それに懲りたので、プラスチックのお皿を何枚か買ってしばらく使っていました。でも、プラスチックのお皿で食べるとなにか料理が安っぽく感じるというか、雰囲気が出ない。そこで、せともののお皿(といっても安物だけど)で再び食べてみると、「ちゃんとした食事をした」という気分になります。今まで、食器なんて全然気にしてなかったけど、食器って料理にとって大事なものなんですね。そんなことをふと思いました。
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